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これでバッチリ!世界遺産仁徳天皇陵

世界遺産にも認定された仁徳天皇陵。

小さな頃から存在は知っていたが、いったい何がどれだけ凄いのかわからない。

天皇のお墓でしょ?

日本一デカいお墓ですよね!?

だけで済ませない為に行ってまいりました!

 

 

 

謎多き仁徳天皇陵

仁徳天皇陵を調べても情報が少ないしわかりづらい!

と思っていたんですが、行ってみたら理由がはっきりしました。

 

理由としては…

諸説が少ない事にあるそうです

 

中国から文字が日本に伝来(輸入)されたのが4世紀後半と言われてるので

仁徳天皇の古墳時代は文字が伝来する約200年前と考えていいぐらいなんです。

 

TOMO
ちなみに、文字は中国から仏教と共に伝来(輸入)されたそうです

 

謎を解く鍵は魏志倭人伝

いよいよわからないなと思っていたら、魏志倭人伝にその事が書かれていたみたいです!

 

魏志倭人伝とは、三国志で有名な三国時代(日本でいう卑弥呼で有名な弥生時代)

中国人が日本人(倭人)の風習などについてまとめた書物のこと。

 

謎の100年問題

魏志倭人伝の中で仁徳天皇から雄略天皇まで事柄が使者を通じて書かれているそうなんですが…

日本が古墳時代に差し掛かった頃、中国では南北朝時代が始まり国政のごたごたで100年近く使者を送れる状況ではなく記述がほとんど無い時代となっています

 

そこで、役に立つのが古事記です!

といっても、日本の書物だといえまた曲者なのが古事記は天武天皇の飛鳥時代に制作が始まるので、根本が伝説の聞き伝えということで事実としてふんわりとした部分があるとも言われているみたいです

 

なので、魏志倭人伝と古事記を比べても

それぞれの記述された年代が少し違っていた事などがあったからとされています。

 

TOMO
日本に文字が無い!

頼りになる中国が国政のごたごたで文献が途絶える!

謎多き古墳時代のロマンを泉州UP的仮説と考えてお読み下さい!

 

古代日本の首都は大阪にあった!!

第15代 応神天皇(仁徳天皇の父)から第18代 反正天皇までの期間、首都は大阪にあったとされています。

都って聞くと、奈良・京都・東京といったイメージが強いですが

その昔、大阪に巨大な都があった事がわかっています

 

TOMO
いきなりパンチ強いですね!(笑)

調べて初めてわかった事なんですが、古代大阪が中心だった時期があったなんてビックリしました!

 

仁徳天皇はこんな人だった

仁徳天皇の父、応神天皇の頃から難波周辺に都があったそうです。

外交を便利にするために、仁徳天皇時代から河内方面に都を広げたと言われています。

そして、日本初の大規模土木工事を行った事も文献で残っています

 

そんなある日、仁徳天皇が皇居の高台から民家を見下ろしたとき

どこの民家からも炊飯の煙が立ち上がっていない事に気付き

民の貧困を察し、安定するまで税を免除した

 

 

その期間は3年

民の苦しみを分かち合う」決意のもと、皇居の屋根が朽ちて雨風吹き込む中夜空を見ながら眠ったそうです

その甲斐あって、民の暮らしは戻り炊飯の煙がそこらじゅうから立ち上ったそうです。

 

その情景を見ながら

「高き屋に、のぼりて見れば、けむり立つ、民のかまどは、にぎはひにけり」

といった歌が後の平安時代に「民の竈」(たみのかまど)という逸話となって語られます。

 

都以外の民の生活も回復するまで税はとらない!」と決めて

そこからさらに3年税をとらずに民と苦しみを分かち合った

皇居がますます朽ちていった中、民が仁徳天皇を「聖帝」(徳のすぐれたえらい天子)と呼び

自ら皇居の修繕しに行った事が文献に残っているそうです。

 

朽ちていく皇室の中で、仁徳天皇は

われはすでに富んでいる 民は大御宝(たから)なり

と言ったそうです。

 

TOMO
今の権力者が「6年間税金を取らずに苦しむ民と同じ生活をする!」なんてこと絶対に言い無さそうですよね!(笑)

仁徳「多くの思いやりで、愛情を注ぐこと」とつけられた意味がわかります。

あれ?

そうなると、豪族達が権力を誇示するために大きなお墓を作らせたと言うのとはまた違った背景が見えますね!!

 

ちなみに、仁徳天皇陵を建設するのには、2000人で作業に当って15年かかるそうです!

 

仁徳天皇陵は神を祭る場所だった説!

仁徳天皇がどんな人柄でどんな事をしたのかがわかった所であの巨大な前方後円墳がどんないきさつで、どんな理由で創られたかを解説していきます!!

 

 

その中で気になる点は

  • どういったいきさつで創られたのか?
  • 何であんな形なの?
  • 古墳はみんなお墓なの??

色々な説がありますが、泉州UP的目線で順番に解説していきます!!

 

どういったいきさつで創られたのか?

大規模土木工事で川を作ったり

耕地開発で田んぼを作ろうとしたら土地を平地にしないといけなくなります。

 

そのときに出た土を計画的に盛り上げて意図的に山を創って精霊を祀ったとされている文献も残っているそうです。

当時仏教も伝わってなく、山や川などに精霊が宿るとされていたので民衆の精神的支柱になったでしょうね。

 

仁徳天皇がお亡くなりになった後、その山を王陵として建造されたそうです。

 

何であんな鍵穴のような形なの?

前方後円墳の四角い部分は元々お祈りをする場所だったとされているそうです。

 

四角い場所→お祈りの場所

丸い山→精霊を祀った後に仏教や儒教的思想が伝来し仁徳天皇を祀るようになる

 

なので、仁徳天皇のお墓と拝んだりお祈りをする場所で前方後円墳となっているそうです。

 

TOMO
古墳は3重に創られた円墳は高さ海抜50メートルあって、白い石で斜面を覆った事で当時外交があった中国船に技術の高さを誇示する建造物でもあったとされています。

ちなみに

仁徳天皇が4世紀頃に実在したとされているのに対して仁徳天皇陵が建造されたのが5世紀頃として100年近く謎の期間があることも知られています

 

古墳はみんなお墓なの??

これ、僕も思ってたんですがそうではないみたいです。

仁徳天皇陵付近は当時古墳時代、田んぼを作る時に土地を平たくした事で川や海の氾濫で逃げ場がなくなったそうです。

そんな中、逃げ場として使われていたのがその他の古墳群だといわれています。

 

なので、お墓として使用されている古墳と避難場所として使われていた古墳に分かれるといった説があります

 

仁徳天皇の美学「力」とは

仁徳天皇の考えが今の皇室にも引き継がれているそうだ。

それは、「民の苦しみを分かち合う」という考え。

 

時の権力者の中には奴隷のように、人を道具のように考え扱う歴史が取りざたされる中、仁徳天皇は「分かち合う」考えを持ち、それを貫いた

 

その美徳が民衆に理解され、民衆はそれに応えた。

その出来事から僕が感じたのは、仁徳天皇という人物が持つ哲学が、後の世界遺産にもなる文化と、皇族の思想を創ったのではないかと

 

TOMO
古墳の大きさが力の象徴だとされているなら

日本を治める最大の力

それは、強制力ではなく思いやりなのかもしれませんね

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